中野区弥生町

引っ越しと“ひろし”の思い出


 ま、おかげでアパートからネズミがいなくなったんだから感謝してほしい位なんだ が、当然大家さんにニラまれてしまった。仕事から帰ると入り口の扉に[猫にえさを あげないで、中にも入れないでください]と張り紙をされてしまった。
 
 あたしは引っ越が多いほうで田舎にいたころも両親の都合で3〜5年に一回は引っ越 しをしていた。東京に来てからも都内を数ヶ所。大阪、富田林や門真と引っ越し大好 きな子供だったので(とは言え、その頃はすでに26〜27才だったと思う)また新しい 部屋を探すことになる。当時付き合っていた娘の友達が永福っていい所だよといわれ たのを思い出し、早速アパートを探すことにした。その頃は猫が飼えるアパートを探 すことは不可能に近く、勢い、大家さんが近くに住んでいないことを条件に探した。 また、仕事もやっとレギェラーがもらえるようになり、(これが諏訪湖のほとりの岡 谷という町の小さなデパートのチラシで、でも週一回撮影が有る、というありがたい ものだった。毎週車を運転して岡谷まで行かないといけない。当時持っていた車はハ イエースのロングで車庫が見つからず路上駐車をしていたのだ。これも引っ越す原因 の一つ。それと中央高速の乗り口に近いということ。でもそれまでよく路上駐車で過 ごしていたもんだ)少し広いアパートに越すことにした。
 
 そういえば引っ越しが近づいたある日、“おかく”そっくりの猫を見かけた。多分 お兄ちゃんだったのかもしれなかったが、片目がつぶれていた。見かけたのはそれっ きりで、ひょっとしたら長生きできなかった子なのかもしれない。“縁”があった “おかく”と縁のなかったお兄ちゃん。
 
縁がなっかたといえばあたしが学生時代に飼っていた猫で“ひろし”と言う猫がい た。八戸時代の友達でベースを弾いていた“あつし”と言う友達の家で生まれた子供 たちの一人を高円寺からもらってきたのだ。(当時…武蔵野美術大学で絵書きを目指 していたあたしは学校の傍の恋ケ窪と言うなんとも色っぽい地名の町に住んでいた。 何でも昔鷹狩りにきたお殿様が、村の娘を見初めたとかなんかの伝説があったらし い。そういえばすぐ隣の駅は鷹の台。)そんなに長くは一緒に住んではいなかった。


当時そばに住んでいた、これも後輩の能美道子と言う娘も猫を飼っていた。彼女がが里帰りを するというのであづかった猫たちと一緒の“ひろし”。真ん中が“ひろし”なのだ が、こうなる前は5時間ぐらいアパートの中を上を下への大騒ぎ、まさしくラプソデ ィー状態だった。いちばん息を切らしていたのはあたしだったかも知れない。気がつ くとベッドの上でこの有様。何だか幸せってこんなところにあるのかしら?


確か埼玉辺りの川べりだと思う。車でドライブ、“ひろし”は初めてのお外。最初は こわごわと草むらの中を歩く。


外はあんまり得意じゃないし、まだ寒かったみたいであたしの肩に乗り、満足げな“ひろ し”。そういえば、この子はあたしの肩にしょっちゅう乗ってていたような気がする。Gパンのベルトが太いでしょ?


この頃は髪を赤く染めていたんだね、痩せているし、今とは全くの別人28号。一緒にいるのが 学生時代のあたしの恋人。(ZOZOって言う変わったあだ名だった)

 当時卒業聖作の間際で自宅で絵を描いていたのだが、私の名前を付けた“ひろし”(それであたしのあだ名が“にゃんこ”になった)は いたずらが大好きな男の子で完成 間近の100号のキャンバスと借り物のアパートのふすまをぼろぼろにしてくれた。そ んなこんなで(今思うとそんなこと理由にならないのだが)飼いきれなくなり、後輩 の弘前出身の奈良君にもらってもらったのだ。多分半年くらいの間しか飼っていなか ったのだと思う。当時付き合っていた娘とも別れ、なんとも無責任な学生生活だった ことか?  これは縁がなかったという以前の問題かも知れないな。今では“ペットを捨 てるなら、自分の手で絞め殺せ!”って言ってるあたし。

 ちなみに3年くらい前にその奈良君と久しぶりに合う機会があった。古い友達から銀座で個展を 開いているよ、って聞いて、“そっか、あいつは作家として頑張っているのか、応援 したいな”という純粋な気持ちで、あたしにしては珍しく大枚5000円もするワインを 買って元気づけに出かけたものだ。私の頭の中には貧乏画学生だったころの面影しかないのだもの。ところが画廊に着いてみると、女子高生の山、取材陣の山で、花束、高そうなワインの振る舞い。げげっ!!いったい何が起こっているんだ? あたしって会場を間違えてき ちゃったのかしら?

 じつは、彼は今ときめく奈良美智その人だったのだ。それでも彼は私を見つけてくれ て、「アンだ〜しかさぁ〜ん(これもあたしの当時のあだ名)きてくれだのけぇ?な づかしいなっす〜」と昔と変わらぬ弘前弁で私を認知してくれた。わたしが差し出したワインを「これは〜もってかえって、一人でいただくすけ」と昔のまま。そのへんにあるワインのほうがはるかに高くてうまそ美味そうなのに。

 あたしは彼がドイツに行ったことは知っていたが、その後、「吉本ばなな」の挿し絵で日本に逆輸入され一躍有名画家になっていたことを全く知らなかったのだ。「絵が変わ ったでしょう、これは落書き落書き、昔のように追いつめていねえんだもん。へんども求めてもらう絵なんだあ」彼はあれほどの売れ方をしたにもかかわらず、良い意味での“変わらぬ人”だった。

 そんなこんなで、彼の存在は今ではあたしの大きな自慢の一つ。