台東区浅草橋5丁目

Last Day't

 “久田”が起きて“おかく”を見に行った。この日は電塾なので寝坊しているあたしを
「“おかく”の様子がおかしい」
と慌てて起す。ぐったりとしていて、息も細い。土曜日でアトムさんがお休みなのを承知で電話をかけると、すぐ先生がでてくれた。

「どうしました?!」
「先生、“おかく”が、“おかく”が…」
「どんな様子です?」
「おかしいんです…」

 あたしは“おかく”の左手(左前脚)を握りなが死にそうなのです、という言葉を飲み込んだ。その時“おかく”のからだから、ふっと生気が消えた。彼女はあたしたちが寝坊なのを知っているので、ここまで頑張ってくれたのだろうか?
“おかく”は今まで飼った猫の中で初めてあたしの手の中で息を引き取って行った。この間約3分。もすこし寝坊していたら間に合わないところだった。
“おかく”は私たち夫婦だけでなく、大好きな“アトム動物病院”の先生まで臨終の間際に呼び出して、そして行ってしまった。ぜいたくなやっちゃ。

「…どうしたんですか、鹿野さん、どうなんです?」
「今、死にました…ありがとうございました。土曜日のの朝なのにすいません」
「…」
「あ、電話切ります…」
先生にしたら迷惑な話だ。しかし、こんな時にほかに言い様があるだろうか?

 “もういい加減に開放してあげよう”最初はこういってくれたのかな、と思ってた。飼い主のエゴもここまで来るといい加減あきれる。
 確かに看病疲れはあった。4年間に及ぶ時間を守っての投薬、吐き散らすものの処理、ご飯の調整、引っ越ししてしまったために遠くなった病院への週一回の搬送。
 ただでさえ少ない睡眠時間を削って“おかく”のために時間を作った。そろそろやり切れなくなるかもしれないな、なんてことを思ってしまったことを否定はしない。けれどもこれらはすべて、“おかく”に少しでも長く、生きていて欲しいという私たちのエゴだったのではないだろうか? 

 わたしはきっと…“おかく”も幸せな生涯だったと信じている。18年間私はとても大きな癒しと愛をあたしたちに与えてくれ、そしてきっと“おかく”にも私たちの気持ちは伝わっていたのだと思う。そう信じたい。しかし…

 じつは彼女は“もういいよね”といっいていたのだろう。あたしたちが“少しでも長く生きて”と望んだので最後の生命力をジューサーミキサーでしぼってて布ごしするほどに頑張ったのだ。
(あたしたちは)生きていて欲しいから、好きな食べ物もあげず、あれこれ規制し、いやがる薬を飲ませ、点滴までした。なぜなら彼女は私の生活の中で季節にもかかわりなく、朝も昼も夜も、私に向かって咲き続ける向日葵だったのだから。

 彼女がいなくなってしまう事を許せなかったあたしたち。
 
 彼女は私たちとすこしでも長く一緒にいてあげようと思い、力を振り絞って生きてくれたのだ。どれだけあたしは(いや、あたし達は)“おかく”に癒され、元気づけられ、共に生き、豊かで楽しい日々を過ごしてきたことだろう?
 その事実、つまりいつも、いつの明日にも、当然のように“おかく”がいるという事実になれきってしまい、いつまでも一緒にいることが当然のこととして、あたし達は彼女にともに生きるることを強制してきたのかもしれない。
“おかく”はいつもあたしの方を無邪気に向いている私たちの向日葵だったのだから。

 そして2002年8月3日。土曜日の朝。
 ついに、私の向日葵は私に向かって咲き続けることができなくなった。
 もう私たちの生活の中にあの、ぽんわかと咲く“向日葵”は戻ってはこない。
 どんなに自分としては不条理と感じていても18年間、人間の世界で言えば、多分100年にも及ぶ長い間、最後の最後まで私に向かって明るく咲き続けてくれたことに対して感謝しなければ。

 あたしの、あたし達の半生のありがとう。

 そう思っても流れる涙は止まらない。あたしが大人になってから(まだ子供だという意見もあるが)泣いたのはこれが4回目。

 携帯電話で“久田”が動物墓地に電話をかけている。

 “たま子”や“ごんちゃん”を焼いてもらった昔の練馬の家のすぐ近くにある動物墓地に行き、“おかく”も焼いてもらうことにした。何といってもこの練馬で12年を過ごしたのだ。“たま子”の時と同じよう、あきれるくらいくっきりと晴れた日だった。ただし、焼却炉には無煙装置が取り付けられ、煙は出ないのがなんだか不思議。“ごんちゃん”の眠る共同墓地に墓参りをして、カタクリの咲く斜面に別れを告げる。焼き上がった“おかく”の骨を持ったまま、電塾に参加。

 最後のドライブはつらい。